セカンドキャリアアドバイザー – 古田寛幸

古田寛幸(ふるた ひろゆき)
北海道札幌市出身1991.5.23 生まれ

Jリーグ総通算 : 239試合出場
【ユース歴】
東川下サッカースポーツ少年団 コンサドーレ札幌U-15 コンサドーレ札幌U-18

【プロ歴】
北海道コンサドーレ札幌 カマタマーレ讃岐 ツエーゲン金沢 ブラウブリッツ秋田

【代表歴】
2006年 U−15日本代表
2007年 U−16日本代表
2008年 U−17日本代表
2009年 U−18日本代表
2010年 U−19日本代表

【引退後のキャリア】
2020年〜 有限会社ビック・インターナショナル役員
2021年 ARJ創業
2022年 キッチンカー開業
2023年 株式会社自分自身 設立

サッカーに人生の全てを捧げていました

僕自身の経歴をご覧頂くと分かる通り、幼少期からサッカーが人生の全てでした。

8歳の頃、兄の影響で始めたサッカーでしたが、学生時代は四六時中サッカー。寝ても覚めてもサッカー。

世代別日本代表の遠征も多く、学校を休むこともしばしば。そのような学生生活を経て、サッカーを始めて10年後の18歳の時、プロサッカー界に飛び込みました。

右も左も分からない、つい数日前までただの高校2年生だった僕は、とにかくがむしゃらに、“プロ”という物に食らいついていました。

大変有難いことに、10代の頃から試合に出る機会も多く、今思えば凄い環境だったのですが、20歳の頃にはキャプテンマークを巻いて試合に出場することもあり、若造ながら個人の結果追求はもちろんのこと、「コンサドーレ札幌のために」と、ある種、背負っていた部分もあったかもしれません。

当時の僕には、あれだけ素晴らしいクラブを背負えるだけの器と実力がなく、当時コンサドーレ札幌のキャプテンだった河合竜二さんに相談したこともありました。

生意気ですが、学生時代からプロサッカー選手になる未来は鮮明に見えていて、“なれない未来”が全く見えないほどでした。

プロサッカー選手になることは通過点で、しっかりチームで結果を出して、ステップアップする。そのような未来を夢見て日々トレーニングしていたのですが、

2013年の3月。ある出来事が僕のサッカー人生を狂わせます。

左膝外側半月板断裂

絶望しました。

「Jリーグで3年間プレーし、4年目で海外に行く」というビジョンを持っていた僕は、目標達成のために集中していました。

ちょうどプロ3年目でJ1でプレーし、チームの成績こそ残念な結果に終わってしまいましたが、個人としては「J1でやれる」という手応えがありました。

するとプロ4年目に差し掛かる時、スイス1部のあるクラブからトライアウトの打診が来ました。

「よし、来た。」僕はそう思いました。

当時、「古田海外移籍か?」と各社メディア様に取り上げて頂き、ルーキー時代から僕の我儘を聞いて頂いていた、当時コンサドーレ札幌の強化部長の三上さんにも背中を押して頂き、日本を飛び立ちました。

結果は…、、契約は勝ち取れず、日本に戻ってくることになり、チームはすでに国内合宿中で始動している中、不甲斐ない形でクラブに合流しました。

批判などもたくさん受けていました。心無い言葉もたくさん頂きました。でもそれは全て自分で巻いた種です。受け入れて前に進むしかありません。

僕は何とかクラブからの信頼、サポーターの皆様からの信頼、選手たちからの信頼を取り戻そうと、正直かなり焦っていました。

やはり人間、焦ったり生き急ぐと、プレーも人生も上手くいかなくなります。案の定スタメンを外され、札幌ドームで行われたホームガンバ大阪戦。途中出場でピッチに送り出された僕は、約10分後、相手選手のシュートブロックの際に左膝が捻じれ、ピッチに倒れ込みました。

「終わった。」すぐに状況を悟り、検査の結果、左膝外側半月板断裂。武器である左足が全く動かなくなり、長期離脱を余儀なくされ、その年のシーズン全てを棒に振ることになりました。

サッカーを取り上げられた自分に何が残るのだろう?

強制的にサッカーを取り上げられ、ピッチの外から仲間たちの様子を指をくわえて見ることしかできなかった僕は、「自分の人生からサッカーが無くなったら何をするのだろう?」いわゆる“セカンドキャリア”のことを考え始めます。

今までは日々のトレーニングと試合に向けた調整で毎日が埋め尽くされていたのですが、リハビリの毎日となった時、ふと未来の事をぼんやり想像してみました。

「何も残らない」

シンプルにそう思ったのです。もちろんプロサッカー選手として、多くの人々が経験できないことをたくさん経験させて頂きました。

その多くは自分の人生の中でずっと残り続けますし、この先の未来で活かされることもたくさんあるでしょう。

ですが、僕たちスポーツ人材が幼少期から人生の全てをかけて磨いてきたドリブル、パス、シュートの技術は、次のキャリアでは全く役に立たないのです。

このままだとキャリアの転換期に必ず今までのしわ寄せが来る。とは言え、現役中にできることは限られる。でもできることは必ずある。

そう思った僕は、2013年の怪我をキッカケに、サッカー以外の知識やスキルをつけるために、隙間時間で勉強したり、コンテンツを見たり聞いたり、“学びの時間”を確保していました。

そして2019年シーズンを最後に、「今年で引退しよう」と心に決め、チームメイトには最後まで伝えず、サッカー人生に後悔のないように、全てを出し切り、やり切ることを意識し、セカンドキャリアに向けて自身の矛先を少しずつ次のキャリアにスライドさせていったのです。

Arxcs代表の杉山と出会い、この業界に変革をもたらすことを決める

あれは確か2022年の11月でした。

当時僕は現役アスリートのキャリア支援のコミュニティ、ARJを立ち上げ、運営している時、Arxcs代表の杉山は体育会学生に特化したコミュニティを運営していました。

お互いのバックグラウンドは違えど、スポーツ人材への思い、この業界に蔓延る長年の社会問題、それらの解決と、創りたい世界観が一致したのです。

ちょうど紅葉が綺麗だった秋の京都に杉山と2人で訪れ、ふらっと入ったカフェの中で、「一緒にやりましょう。」

キッカケはここからでした。

現在Arxcsに所属する体育会学生も、“学生”か、“社会人”か、の違いだけで、体育会学生も、プロアスリートも、セカンドキャリアで同様の悩みや不安を抱えるのです。そこで人生のコントロールを失うのです、選択肢があまりにもないのです。

僕自身がプロの世界に入った時、右も左も分からなかったように、いや、それ以上に、サッカーの世界から“社会”に放り出された時に、まるで生まれたての赤ん坊のように、この世界の一歩先が未知過ぎるのです。

赤ん坊と違うのは、この社会に“親”はいないということ。手取り足取り教えてくれる人はおらず、全て自分自身で学んでいかなければなりません。

とは言え、自分1人で未来の選択肢をつくり、サッカー以上の“何か”を見つけることは難しい。そこで、社会に放り出される前の学生期間中から、人生を設計し、経営の基礎を学び、ボードゲームを使ってお金の教育を受ける。

そうすることで次のキャリアでも、体育会学生の強みを活かしながら、この社会で圧倒的なアドバンテージを取れるのではないでしょうか?

僕自身がプロサッカー選手として培ってきた経験、そして引退後に感じた劣等感、自分の理想のライフスタイルを叶えるために起業し、会社経営に至ったストーリーなど、プロサッカー選手を目指す学生だけでなく、全国中の体育会学生に「伝えられることがたくさんある。」そう思い、Arxcsにジョインすることを決めました。

「人々に覚醒を、人生に自分らしさを。」ミッションに、Arxcsのビジョンである、「スポーツに魅了された人々が、覚醒できる居場所をつくる。」の達成のため、自分自身が持っている全てをこの環境にぶつけます。

後悔のないスポーツ人生を送りたくはないですか?現役時代が人生のピークだと嫌ではないですか?引退後の人生も夢中になれるモノに出会い、やりがいのある毎日を過ごしたくはないですか?

Arxcsという環境は、それらを解決し、志の高い仲間がたくさんいます。

中で待っています。直接お話できる日を楽しみにしています。

古田寛幸

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